日蓮正宗 昭倫寺

六月度 広布唱題会の砌

 令和元年6月2日 於 総本山客殿

大聖人様は『上野殿御返事』に、逆縁成仏の例を挙げて
「天竺(てんじく)に嫉妬(しっと)の女人あり。男をにくむ故に、家内(かない)の物をことごとく打ちやぶり、其(そ)の上にあまりの腹立(はらだち)にや、すがた(姿)けしき(気色)かわり、眼(まなこ)は日月の光のごとくかがやき、くちは炎をはくがごとし。すがたは赤鬼・青鬼のごとくにて、年来(としごろ)男のよみ奉る法華経の第五の巻をとり、両の足にてさむざむ(散散)にふみける。其の後命つきて地獄にを(堕)つ。両の足ばかり地獄にい(入)らず。獄卒鉄杖(てつじょう)をもってう(打)てどもいらず。是(これ)は法華経をふみし逆縁の功徳による」(御書 一三五八頁)
と仰せられています。

すなわち、インドに昔、非常に嫉妬深い女性がいて、夫を疑い憎むあまり、ことごとに当たり散らし、家の物を壊すなど荒れ狂い、その上、あまりの腹立たしさに、怒りを露(あら)わにして、眼は日月の光のように異様に輝き、口は炎を吐くが如く、その姿はまるで赤鬼・青鬼のようであった。
さらには、亭主が毎日読んでいた法華経の第五の巻を両足で散々に踏みつけたのであります。
その後、当然の如く女人は地獄に堕(お)ちましたが、法華経を踏みつけた両足だけが地獄に入らず、獄卒が杖をもって打てども、どうしても両足だけが地獄に堕ちなかった、という話であります。

これは「法華経をふみし逆縁の功徳による」と仰せのように、両足で法華経を踏みつけたことが逆縁となって、地獄に堕ちなかったという話であります。
つまり、成仏得道のためには、たとえ逆縁であっても法華経に縁することが、いかに大事であるかを教えているのであります。

故に『一念三千法門』には、
「妙法蓮華経と唱ふる時心性(しんしょう)の如来顕はる。耳にふれし類(たぐい)は無量阿僧祇劫(あそうぎこう)の罪を滅す。一念も随喜する時即身成仏す。縦(たと)ひ信ぜずとも種と成り熟と成り必ず之に依って成仏す。妙楽(みょうらく)大師の云はく『若(も)しは取(しゅ)(も)しは捨(しゃ)、耳に経(へ)て縁となる、或(あるい)は順或は違、終(つい)に斯(これ)に因(よ)って脱す』云云(中略)此の娑婆世界は耳根得道(にこんとくどう)の国なり」(同 一〇九頁)
と仰せであります。

「耳根得道」とは、仏法を聞いたことが縁となり、成仏得道することを言うのでありますが、私どもの折伏も同様でありまして、たとえ相手が私どもの話を拒(こば)み、聞こうとせず、反対したとしても、「縦ひ信ぜずとも種と成り熟と成り必ず之に依って成仏す」と仰せのように、妙法蓮華経に縁したことが因となって、やがて成仏に導くことができるのであります。

されば、私どもは謗法の者に向かっては、常に下種を心掛けて仏縁を結び、折伏をしていくことが、極めて大事なのであります。

(大白法・令和元年6月16日号より抜粋)

(令和元年9月掲載)