日蓮正宗 昭倫寺

日如上人御言葉 平成三十年 元旦勤行の砌


平成三十年 元旦勤行の砌

 平成30年1月1日 於 総本山客殿

法華経勧持品を拝しますと、
「濁劫(じょっこう)悪世の中には 多く諸(もろもろ)の恐怖(くふ)有らん悪鬼其(そ)の身に入(い)って 我を罵詈毀辱(めりきにく)せん 我等仏を敬信(きょうしん)して 当(まさ)に忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を著(き)るべし 是(こ)の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍(しの)ばん」(法華経 三七七頁)
とあります。

「悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱せん」とは、「悪鬼」すなわち仏道修行を妨げ、衆生を悩ます夜叉(やしゃ)・羅刹(らせつ)等のことでありますが、転じて言えば、誤った宗教・思想を指します。
この悪鬼が身に入ると、人の思考は乱れ、狂いを生じて、法華経の行者を迫害したり、あるいは悪口(あっく)・中傷を行うなどして正法の妨げとなり、加えて社会の思想の乱れや天変地夭(ちよう)を起こすことになるのであります。

されば『兄弟抄』には、
「第六天の魔王が智者の身に入って善人をたぼらかすなり。法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是(これ)なり。設(たと)ひ等覚の菩薩なれども元品(がんぽん)の無明と申す大悪鬼身に入って、法華経と申す妙覚の功徳を障(ささ)へ候なり。何(いか)に況(いわ)んや其の已下(いげ)の人々にをいてをや。又第六天の魔王或(あるい)は妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、或は国王の身に入って法華経の行者ををど(脅)し、或は父母の身に入って孝養の子をせ(責)むる事あり」(御書 九八〇頁)
と仰せられ、たとえ菩薩の最高の位で、成仏を目前にして、ほとんど仏に等しい境地に達した等覚の菩薩であっても「元品の無明」という悪鬼がその身に入ると、法華経の広大なる功徳の障害となり、また妻子の身に入って親や夫を誑(たぶら)かし、あるいは国王の身に入って法華経の行者を脅(おど)し、あるいは父母の身に入って孝養の子を責めたりするのであると御教示あそばされているのであります。

「元品の無明」とは、万法に本然的に具わっている根本の迷いのことであります。
これを打ち破るところに成仏があり、そのためには大御本尊様に対する絶対信こそ、最も肝要となるのであります。

故に『御義口伝』には、
「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり。無疑曰信(むぎわっしん)の釈之(これ)を思ふべし云云」(同 一七六四頁)
と仰せられ、無疑曰信の信心、すなわち心に寸分の疑惑のない状態の信心こそ「元品の無明を対治する利剣」であると仰せられているのであります。

(中略)

今、全国の法華講中が総力を結集し、異体同心・一致団結して、来たるべき平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築の実現へ向かって、勇躍として前進している時、あらゆる障魔が競い起きることは必定(ひつじょう)であります。

「魔競(きそ)はずば正法と知るべからず」(同 九八六頁)
との御金言に照らして、私達はこのことを心得ていかなければなりません。

しかしながら「是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん」と仰せのように、たとえいかなる障魔が競い起きようとも、強盛なる信心をもってあらゆる難事を忍ぶ時、必ず大御本尊の広大無辺なる功徳を享受することができるのであります。

特に本年は「行動の年」であります。

大聖人様は『土篭(つちろう)御書』に、
「法華経を余人(よにん)のよ(読)み候は、口ばかりことば(言)ばかりはよ(読)めども心はよ(読)まず、心はよ(読)めども身によ(読)まず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(同 四八三頁)
と仰せであります。

皆様には、この御金言を拝し、一人ひとりが決意を新たにして、折伏の先陣を切り、一天広布を目指して御精進くださることを心から念じ、新年の挨拶といたします。

(大白法・平成30年1月16日号より抜粋)

(平成30年2月掲載)