日蓮正宗 昭倫寺

立正安国論(r1.5)


(立正安国論 御書二四二頁一二行目)

(そもそも)近年の災を以て往代(おうだい)を難ずるの由(よし)(あなが)ちに之を恐(おそ)る。聊(いささか)先例を引いて汝の迷ひを悟(さと)すべし。止観(しかん)の第二に史記を引いて云はく「周の末(すえ)に被髪袒身(ひほつたんしん)にして礼度(れいど)に依らざる者有り」と。弘決(ぐけつ)の第二に此の文を釈するに、左伝(さでん)を引いて曰く「初め平王(へいおう)の東遷(とうせん)するや、伊川(いせん)に被髪の者の野(の)に於て祭(まつ)るを見る。識者の曰く、百年に及ばざらん。其の礼(れい)(ま)ず亡びぬ」と。爰(ここ)に知んぬ、徴(しるし)(さき)に顕はれ災後(のち)に致ることを。「又阮籍(げんせき)逸才(いつざい)にして蓬頭(ほうとう)散帯(さんたい)す。後に公卿(こうけい)の子孫皆之(これ)に教(なら)ひて、奴苟(どく)して相辱(はずか)しむる者を方(まさ)に自然(じねん)に達(たっ)すといひ、そん節(※1)兢持(きょうじ)する者を呼んで田舎(でんしゃ)と為す。司馬氏の滅ぶる相と為す」已上。


(通解)

そもそも、近年の災難の原因が過去に法然が邪義を弘めたところにある、と指摘したことについて、あなたは、ずいぶん恐れをを抱いているようだ。
そこで、少しばかり先例を引いて、あなたの迷いを諭すことにしよう。
摩訶止観の第二に、史記を引いていわく、「中国・周王朝が微末しつつあった時代に、髪を乱し、身は裸で、礼儀・礼節を守らない者がいた」と。
摩訶止観輔行弘決の第二に、この文を解釈して、春秋左氏伝を引いていわく、
「周の第十三代平王の代に、都を東の洛邑に遷す際、伊川において、髪を乱した者が、野原で神を祭っているのを見た。
これについて識者は、あと百年も経たぬ内に国が亡びるだろう、その前兆としてまず礼が亡びてしまったのである。と述べた」
と。
このことから、まず前兆が顕れ、後になって災いが起こる、ということが分かるのである。
また同じく摩訶止観の第二にも次のように述べている。
「中国・西晋の時代に、阮籍という有名な逸材がいたが、彼は髪を乱し帯をだらしなく締めて、気違いのような格好をしていた。
やがて公卿の師弟が昔、阮籍のまねをして、賤しい姿で口汚く罵りあうような者を自然であるといい、反対に礼節を重んずる慎み深い者を田舎者であると呼んだ。
これを、西晋の王である司馬氏の滅びる相とした」以上。