日蓮正宗 昭倫寺

立正安国論(h30.7)


(立正安国論 御書二三八頁一六行目)
       
 涅槃経に云はく「我涅槃の後(のち)無量百歳に四道の聖人悉く復(また)涅槃せん。正法(しょうぼう)滅して後(のち)像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像(じぞう)して少(すこ)しく経を読誦(どくじゅ)し、飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)して其の身を長養(ちょうよう)し、袈裟(けさ)を著すと雖も、猶(なお)猟師の細視除行するが如く猫の鼠を伺(うかが)ふが如し。常に是の言(ことば)を唱へん、我(われ)羅漢(らかん)を得たりと。外には賢善(けんぜん)を現じ内には貪嫉(とんしつ)を懐(いだ)く。唖法(あほう)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如し。実には沙門(しゃもん)に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛(しじょう)にして正法を誹謗せん」已上。文に就(つ)いて世を見るに誠に以て然(しか)なり。悪侶を誡(いまし)めずんば豈(あに)善事を成さんや。


(通解)

涅槃経にはこう説かれている。
「釈尊が入滅して後、幾百年と長い年月が過ぎるうちに、仏法を正しく伝える聖人達も悉く入滅するであろう。
正法時代が過ぎて、像法時代・末法時代となれば、次のような僧侶が現れるであろう。
その僧は、外面は戒律を持っているかのように見せかけて、少しばかり経文を読むが、食べ物を貪って我が身を長養し、一応僧侶の袈裟を身につけているけれども、檀家の布施を狙う有り様は、猟師が獲物を狙って細目に見て静かに近づいていくように、また猫が鼠を獲ろうとしているようである。
そして、常に、この言葉を言うであろう、『自分は無上の悟りを得た』と。
外面は賢人・聖人の様に装っているが、内面には貪りと嫉妬を強く懐いている。
仏法の道理など全く分かっておらず、わずか立ち入った法義上の質問に何一つとして答えられない様は、あたかも無言の行である唖法の術を修行している婆羅門のようである。
実際には僧侶としての意義も有しておらないのに、外見だけ僧侶の姿をしており、邪見が非常に盛んで、正法を誹謗するであろう」
以上。

以上の文によって世の中を見てみると、全く経文に説かれている通りである。
このような悪侶を誡めなくては、どうして善事を成すことができるだろうか。