日蓮正宗 昭倫寺

立正安国論(h30.12)


(立正安国論 御書二四〇頁九行目)

 之に就(つ)いて之を見るに、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)の謬釈(みょうしゃく)を引いて聖道浄土(しょうどうじょうど)・難行易行の旨を建て、法華・真言総じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以(もっ)て、皆(みな)聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉ぢ、或は閣(さしお)き、或は抛(なげう)つ。此の四字を以て多く一切を迷はし、剰(あまつさ)へ三国の聖僧・十方の仏弟(ぶってい)を以て皆群賊と号(ごう)し、併(あわ)せて罵詈(めり)せしむ。近くは所依(しょえ)の浄土の三部経の「唯(ただ)五逆と誹謗正法(しょうぼう)を除く」の誓文(せいもん)に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば、乃至(ないし)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」の誡文(かいもん)に迷ふ者なり。是(ここ)に代(よ)末代(まつだい)に及び、人(ひと)聖人(しょうにん)に非ず。各(おのおの)冥衢(みょうく)に容(い)りて並びに直道(じきどう)を忘る。悲しいかな瞳矇(どうもう)をう(*1)たず。痛(いた)ましいかな徒(いたずら)に邪信を催(もよお)す。故に上(かみ)国王より下(しも)土民に至るまで、皆(みな)経は浄土三部の外(ほか)に経無く、仏は弥陀三尊(さんぞん)の外に仏無しと謂(おも)へり。


(通解) 

この法然の選択集の内容を見てみると、中国浄土信仰の祖である曇鸞・道綽・善導の誤った解釈を引用して、仏教の中に聖道門・浄土門と難行道・易行道という立て分けをつけ、法華・真言をはじめ総じて釈尊が一代に説法した大乗教典六百三十七部・二千八百八十三巻のすべてと、一切の諸仏・菩薩及び諸天善神等を、皆、聖道門・難行道・雑行等に束ねて、或いは捨て、或いは閉じ、或いは閣き、或いは抛ってしまっている。
しかして、この四字(捨・閉・閣・抛)をもって一切衆生の真の仏道に迷わせ、さらには、インド・中国・日本の三国の聖僧や十方の仏弟子をさし、皆、念仏の修行を妨げる群賊であると称して、一切衆生に罵詈させたのである。
このことは、近くは、法然等が依経としている浄土の三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)の中の「念仏を称える者は誰でも極楽浄土に往生できるが、ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者は除く」との阿弥陀の誓文に背き、遠くは釈尊一代五時の説法の肝心たる法華経の第二巻に説かれる「もし人がこの法華経を信ぜずに毀謗するならば、(乃至)その人は命終わってのち、阿鼻地獄に入るであろう」との釈尊の誡文に迷うものである。
ここに、時代は末法に至り、人々も知徳の勝れた聖人ではない。
故に皆、それぞれ法然の邪義にたぼらかされて、迷いの暗い道には入り、成仏への直道を忘れてしまっている。
悲しむべきことに誰もこの迷妄を打ち破る者はなく、痛ましいことに、人々は、いたずらに邪信を増している。
それゆえに上は国王から下は万民に至るまで、皆、経といえば浄土の三部経以外になく、仏といえば弥陀三尊(阿弥陀仏とその脇土である観世音菩薩と勢至菩薩)以外にないと思っている。