日蓮正宗 昭倫寺

国立戒壇御指南7


(国立戒壇について 御隠尊日顕上人猊下様の御指南) (その7)
第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義
平成十六年八月二十六日 於 総本山大講堂


さて、四十七年二月には浅井が「事の戒壇」についての宗門の見解を変えるよう要求を出してきたのです。
一つは「正本堂は両抄の御遺命の事の戒壇ではない」というのですが、これは以前から今日まで御戒壇様のまします所、事の戒壇という御指南が本筋であります。
次が「正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで、大御本尊を厳護する堂宇である」ということです。
さらに「御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇である」と主張するのです。
この間ずっと、日達上人が宗門の公式決定として「国立」ということは言わないと言われておるのです。にもかかわらず、あくまでこれに固執しているのであります。

そこで四十七年四月二十八日に、日達上人は妙信講への色々な回答等の意味も含めて、正本堂の全面的な定義をお示しになったのであります。
その「訓諭」には、
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」(大日蓮・昭和四七年六月号ニn)
ということを仰せであります。

このなかの「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところが、また一つの解釈があるのです。「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま『一期弘法抄』の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、そのようになるべく願望しておるところの意味との二つの解釈があるのです。
つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておるということなのです。この二つがあって、それはどちらとも言えないという不定の意味で、こういうようなことをおっしゃったのではないかと思うのであります。

それから、とにかく四十七年中は浅井の問題がずっと起こってきて、昭和四十九年には学会本部へ襲撃をかけたり、そのほか暴力事件を起こすような話があったり、さらに浅井の問題に関して日達上人の御指南を受けるという意味があったりと、とにかく色々なことがありました。
それらのことは到底、一概には言えないし、時間もありませんから申しませんが、これらの問題が終わったあと、特に四十九年ごろのことだが、創価学会が色々な意味で宗門を実質的に支配しようとしたことがありました。
正本堂も造ってやったし、みんな我々がやったではないかというような考え方から、宗門をことごとく支配しようとしたという不逞な心根が、たしかにあったわけです。

当時の大幹部に山崎正友氏と八尋がおり、山崎氏は当時、池田の懐刀でしたが、まもなく学会と別れたあと色々ないきさつがあったけれども、今は宗門の信徒となり、学会破折の急先鋒に立ってやっているのであります。
しかし、八尋は今も学会の弁護士としてやっています。
ともかく、昭和四十九年四月十二日の山崎・八尋の文書があって、そこに、
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて、二とおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後を固めるという方法です(中略)本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ」
と言っているのです。
本来、学会は総本山を根本とし、中心としての信心をする信徒団体ではないか。
それが創価学会が中心であり、民音や公明党が創価学会を守るように、宗門も創価学会を守る存在価値があると言うのだから、これは実に逆さま極まる愚かな考え方でしょう。
つまり「学会主、宗門従」ということが、ここにはっきり出ているのであります。
そして、

「そのための布石としては、ユ本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配 ヨ財政面の支配(学会依存度を高める)」
と、つまり「学会に袖を振られたら宗門はお手上げだから、何かあったら宗門を助けてください」というような体制を作らせておこうというのです。

これは私の時に実際にあったのですが、私が登座してしばらくした時に、平野(当時、創価学会登山部長)という者が何度も目通りに来て、「近ごろ、どうもみんなお山に来る熱意がなくなっている」とか、妙なことをごちゃごちゃと話すのです。
結局、あとで判ったことだが、あの男は「猊下に創価学会が有り難いということを知らせるために、そのような話をしたのだ」ということを、あとで言っていたらしいのです。
また「場合によっては登山もやめようという考えがある」とか、「みんな池田先生を大切にしないと大変ですよ」

という趣意も、たしかに私の所に来て言っていた。
このことからも、このような宗門支配を目指す内容がよく解るのであります。
また次に、
「ラ渉外面の支配 リ信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等) ル基地、典礼の執行権の委譲 レ総代による末寺支配が必要です」
とあります。
末寺の総代のほとんどが学会員であったことは、みんな承知していると思います。
ある年代から最近は法華講員に総代を替えたけれども、ほとんどが学会の総代の時代がありました。
ともかく、そういうようなことを言っておって、さらに、

「今回のとこはユヨラを確立し更にリまで確立てきるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思います」
というようなことを言っているわけです。

だから日達上人は、四十九年四月二十五日の法華講連合会春季総登山会で、
「最近ある所では、新らしい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります」(蓮華・昭和四九年五月号三五n)
?とおっしゃったのであります。
この「ある所では、新らしい本仏が出来た」というのは池田のことです。
そして、

「もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以てくい止めて頂きたい。これが法華講の使命と心得て頂きたい。法華講は実に日蓮正宗を護る所の人々である。日蓮正宗を心から信ずる所の人々であります。大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらば、これは大変なことである。どうかそういうことを耳にしたならば、どうぞ『それは間違っておる』ということを言って頂きたい。どうか皆さんは、この信仰の根本を間違わないで、信心に励んで頂きたい。広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変であります」(同n)

という有名なお言葉があったのであります。このことは本当にそう思います。
ところが、最近でも「日蓮大聖人に続く法華経の行者が池田先生だ」ということを言っているのであります。
言い方は色々あるけれども、これはまさしく同じことです。
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書一七七三n)
と『御義口伝』にあるように、法華経の行者とは本尊の意味であって、大聖人様お一人しかおられないのであります。
それなのに、「池田が大聖人に続く法華経の行者である」ということを言っているのであり、そういうところに創価学会の邪悪な考え方があるのです。

また、日達上人とお話しになったことを北条浩が記録して、油田大作に報告した文書があります。
要するに「猊下の話は大変ひどいもので、これが猊下かと疑いたくなるほどである。
また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした」ということが記録にあるのですが、これは何も、日達上人は大作の犯した謗法やおかしなことをきちんとおっしゃったに過ぎないのです。
それを池田にはこのように報告しているのです。
これについてはあまりにひどいから全部を読むのはやめますが、そういう在り方もあったのであります。

それから、もう僧侶はいらないということを彼らが言い出したことがあるが、それについては日達上人が、四十九年五月三十一日の寺族同心会の時に、
「今、我々出家しておる僧侶がいらないで廃止すれば、次の和合僧団の僧侶が出来る事になってしまう。何も変りはない、ただ現実を破壊せんが為にこれを云うのである」(蓮華・昭和四九年六月号八n)
とおっしゃっている。
つまり学会が現実を破壊せんがために僧侶がいらないということを言っておるということです。
さらに続いて、
「大いに我々も考えて一層努力し、大聖人の仏法を本当に純粋に護っていかなければならない。謗法厳禁という事を考えなければならない(中略)ただ大きくなればいい、大石寺はいろいろの生活が楽であればいいというような考えで皆いろいろの今までの法門のあり方、あるいは布教のあり方を忘れるという様な事があるならば、私は、どこまでも一人でもいいから本山を護りたいと思います。皆様も、大いにしっかりと考えてもらいたい。富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、軒を貸して母屋を取られる様な事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だという事を放言していたという事です(中略)大いに反省し、大いに我々のいくべき道を考え、ただ表面に服従して、ただ大きくなる事を望まないでもっとよく信心をしていただきたい」(同n)
ということを、ここにおっしゃっておるのであります。

次が、四十九年六月十八日の富士学林研究科開講式の時ですが、
「この辺でも、最近、人間革命が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。又、誰れが本仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています(中略)日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。皆様の時に、もし、日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して、我々は喜ぶべきでないし、大聖人が、お喜びになるとは思いません。むしろ、正宗の精神が、なくなってしまった、消滅してしまったということになるので、非常に悲しいことであり、我々の責任は重大であります(中略)どうか、一時の富貴を喜ばないで、大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたいと思います」(大日蓮・昭和四九年八月号一九n)
ということをおっしゃっております。
学会は本当に『人間革命』が御書だと言っていましたが、考えてみればひどい話です。
また、学会がたくさん来ていれば、葬式や法事などの形で多少の御供養が入るでしょう。
しかし、そのようなことよりも「大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたい」とおっしゃっておるのであります。

しかし日達上人御自身の上からは、昭和五十四年五月三日に、学会を最終的には許された御説法がありました。
そこでもって学会を許され、そのすぐ二カ月後に御遷化あそばされたのです。
そして、そのあとを私がお受けしたのですから、私としてはやはり日達上人が締め括られたところから出発しなければならなかったのです。
だから、私はどこまでもその立場を尊重し、そこから出発したつもりであります。
正信会の莫迦どもは「私の言うことがしょっちゅうぐるぐる変わっている」とか、「今になって池田の悪口を言っている」などと言っているけれども、私はその時その時で正しい在り方を常に考えてきたつもりであります。
(続く)

(大日蓮 平成16年11月号)