日蓮正宗 昭倫寺

国立戒壇御指南9


(国立戒壇について 御隠尊日顕上人猊下様の御指南) (その8)
第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義
平成十六年八月二十六日 於 総本山大講堂


さて、私が昭和五十四年にお跡を受け、それからずっと来た平成二年の夏に、法華講の大集会を開きました。
あれは「三万総会」という名目で行ったのだけれども、実際には四万人以上が集まったのです。
それからさらに、その年の十月十三日には大石寺開創七百年の慶讃大法要が行われ、私はこの時の「慶讃文」で、

「一期弘法抄ニ云ク 国主此ノ法ヲ立テラルレバ富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セラルベキナリ。時ヲ待ツベキノミ。事ノ戒法ト云フハ是ナリト。コノ深意ヲ拝考スルニ仏意ノ明鑑ニ基ク名実共ナル大本門寺ノ寺号公称ハ事ノ戒法ノ本義更ニ未来ニ於テ一天四海ニ光被セラルベキ妙法流布ノ力作因縁ニ依ルベシ」(大日蓮・平成二年一一月号八六n)
ということを言いました。
少し難しい言葉だけれども、これを簡単に言えば、本門寺の公称は未来だということを言ったのです。
この時の池田大作は、怒りたくても怒れないような、なんとも言えない顔をしておりました。
大客殿では、私はちょうど東を向いているから見えたのです。
そのあと彼も出てきて挨拶したけれども、その時の顔はなんだか見ていられないような顔でした。
けれども、私は信念を持っているのです。
いくらなんでも、あのような間違った流れや様々な形のあったなかで、しかも池田のわがまま勝手な姿の色々と存するなかにおいて、今現在、直ちに「本門寺の戒壇」と称すべきではないと思っていました。
しかし池田は、おそらくあの大石寺開創七百年慶讃大法要の時に、この私が「大石寺を本門寺と改称したい」とか、「改称する」と言うことを期待していたと思うのです。
それなのに「未来のことだ」と言ったものだから、怒ったのでしょう。
だけど色々な状況上、私は一宗を統率させていただくという意味において、安易に「本門寺と改称する」などとは言えないし、また、あそこで「本門寺にする」とか、「本門寺になる」というような意味のことを言わなくて、私はよかったと思っておるのであります。

ですから、「たるべき」ということも、あくまで願望・予想であり、したがって日達上人が「もう広宣流布だな」とおっしゃったというのも慰撫激励その他、色々な深い意味がおありになってのお言葉であり、直ちに御遺命達成と言われたのでは絶対にないと思うのです。
だから、池田がこれを様々に利用してきたけれども、あくまでも願望であるということの上から、正本堂が御遺命の建物そのものではないということを、三年の一月にも言いました。これは前の二年の時の在り方から出てきておるのであります。

つまり、君達も知っているように「一一・一六」という話があるでしょう。
これは、この平成二年の十一月十六日のことです。
この年の十月十三日に大石寺開創七百年の慶讃大法要で私の「慶讃文」を聞いて、池田は怒って、「よし、それならば日顕のやつをやっつけてしまえ」ということで私を誹謗したのが、約一カ月後の「一一・一六」の発言なのであります。
そのあとすぐ次の日に、普賢岳が噴火したわけで、池田の大謗法、歴然です。
そういう流れがあったのであります。

そこで、平成三年三月九日に私が色々と述べたことに関しててすが、私が教学部長時代に書きました『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』という本があります。
そのなかに、正本堂は広布の時に『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇となる建物だというように、その時はそう思って書いたけれども、現在においては不適当であると、これははっきり言っております。この時はまだ正本堂もありましたから当然、その願望は込めつつも、未来の一切は御仏意に委ね奉るのであると言ったのであります。

ところが三年の十二月八日に、池田大作は、
「正本堂には八百万の御供養者名簿がある。また正本堂を、日達上人は永久不滅の大功績と言われた。だから、だれびともこれを壊すことはできない。自分達が世界一の正本堂を大聖人へ御供養したのであるから、正本堂は私達民衆の殿堂と言い切る資格がある。これをハイジャックか何かのように乗っ取り、横取りし、我がもの顔に居座る悪人が出現した」(聖教新聞・平成三年一二月一〇日付・取意)
という主旨のことを言っているのです。
これは私のことを言っているのだが、私は横取りしたわけでも、なんでもないではありませんか。
昭和五十四年からずっと総本山にいるのです。
そうでしょう。
それを何を横取りしたと言うのだ。
ただ平成二年十二月の終わりに法華講本部の機構を改正した時に、前の「宗規」によってなった総講頭・大講頭等にはいったんやめてもらう、ということでやめてもらったに過ぎないのだから、横取りもへったくりもないのです。しかし、そういうことを言っているのです。
そしてまた「須弥壇の基底部に桐の箱を納めた」というようなことも言っているのだけれども、このうちの日達上人の記念品は現在、きちんとお山で保管してあります。
池田大作のモーニングなどはどうか知らないけれども、日達上人のお衣や願文等は、きちんと保管してあります。

それで、昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。
つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。
そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。

あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」というようにも書いてしまってある。
これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。
けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。

それから『一期弘法抄』の「国主」ということの考え方、これもそうです。今は国民主権だから、国主というのは今ではたしかに民衆なのです。
けれども、政治の在り方等というものは、いつどこでどう変わるか、未来のことは判りません。日達上人も「未来のことは判らない」ということをおっしゃっておりました。

とすれば、我々は本当に全人類を救済するという大目標の上において、御本仏大聖人様が最後に御遺誡また御命題として我々にお残しくださった『三大秘法抄』『一期弘法抄』の「戒壇」の文については、軽々にああだこうだと言うべきではないと思います。
もちろん今、ある時点を予測して考えれば、こうともああとも色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。
だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。
だから、そんなことに関して今、どうのこうのと具体的な形で言う必要はないのです。
一番最初に言ったように、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、事相なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確性が顕れません。
よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。

そこでまた、なぜ正本堂を壊したのだということですけれども、やはり創価学会のあのような謗法の姿が平成二年・三年から出てきて、しかも正本堂の発願主である池田大作は、平成四年に既に信徒除名されているのです。
たしかに日達上人も御苦労あそばされ、正本堂のことに関しては大聖人様への御奉公のお心をもって真剣にあそばされたけれども、今日の状況から見るならば、結局、総本山に正本堂が存在することは広宣流布への大きな妨げとなるということに、一言もって尽きると思います。
したがって、このような謗法の姿があるのであり、まして正本堂が『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むと言っても、それは大勢の信徒が本当に御戒壇様を拝する姿があって初めて、そう言えるのであります。
しかし現在、その姿は全然なくなっているではないか。
最近では、戒壇の大御本尊様にすら疑いや文句を付けているようなことも聞いています。そういうような莫迦どもが今日、大勢充満しているような姿があり、しかも「我々が造ったのだ」と言って威張り返っているような意味においては、正本堂はやはり未来の真の正法広布の妨げになると思っておるのであります。
そこで大客殿に続いて正本堂を解体し、奉安堂を造らせていただいた次第であります。

この奉安堂については、池田大作が正本堂に関して『三大秘法抄』だ『一期弘法抄』だと言って強いてめちゃくちゃに意義づけしたようなことは、私は何も言っていないし、宗門でももちろん言っていません。
奉安堂は、ただ戒壇の大御本尊様の安置の殿堂であります。
しかし、今日においてはあれ位の大きさがないと、実際問題として困るのです。
今年も例年同様、信徒の夏期講習会が十回にわたって行われましたが、だいたい四千から五千人、多い時だと五千数百人の方が、その日一日で来ておるわけです。
そういう面からも、かなり大きい建物でないと、今の法華講の方々の信仰心による参詣行事等の対応の必要性においては不適当な意味もあります。
したがって、敢えてそういう大きさの奉安堂をお造りさせていただいたわけであります。

さて、この奉安堂においても、日達上人の時と同じように御戒壇説法があります。
これはもちろん二大法要の時にだけ行う例になっておりますから、今日も行わなかったし、普段は行いません。
しかし、昔はそうではなかったのです。このことを知る人も、ここにはないだろうけれども、昔、まだ私が小僧から所化のころ、御宝蔵で御開扉をお受けしました。
だいたい日開上人から日恭上人のころで戦前の話だが、そのころはしょっちゅう御戒壇説法があったのです。

例えば、ある日は十人なら十人、十五人なら十五人の登山者があると、そのなかに新登山者がいる場合には、それを内事部で聞いておいて、きちんと御法主に報告するのです。
すると、新登山者が一人でも二人でもある時には必ず、御法主が御戒壇説法をされたわけです。
だから今も、私もしようかなと思ったりもしているのだけれども、ずっとしないで来てしまっているから、今のところまだしておりません。
もっとも、今は大勢だから「あなたは初登山ですか」と一々聞くのも大変だから難しい意味もあります。とにかく、昔はそういうように御戒壇説法をしたのです。

その時の御戒壇説法は、私もだいたい伺っておったのですが、そのなかには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」という御文はありませんでした。ところが、先程話したように私と観妙院日慈上人が宗務院の役員として日達上人に伺った時には、日達上人が御先師の説法本をお示しになり、そこには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」というお言葉があったのです。

それから、もう亡くなったけれども、日開上人の弟子で私の法類に奥法道という人がいまして、この人が非常に書き物が好きな人で、ありとあらゆるものを書き写していました。その奥法道師の写本のなかに、日開上人の御戒壇説法というものがあったのです。今でもどこかに残っていると思いますが、そのなかには、ちゃんとその文があるのであります。
ところが、またおもしろいことに、日開上人が当職の当時は、御戒壇説法を扇子にずっと書かれていたのです。
たしか金銀の扇子だったが、それを開くとずっと墨で書かれてあって、それを読まれていました。
しかし、これは割に簡単な御説法で、それには先程の御文はなかったのです。
小僧のころだったが、私も聞いていて、「本門事の戒壇」ということはたしかにありませんでした。
また御先師の日応上人の御戒壇説法にもないのです。
だから、いつ、どこで、どなたが、どう始められたかは判らないが、六十世日開上人の写本としてはあったのです。
もう一つは、日達上人が我々にお示しくださった御先師の御説法本のなかに、それがあるということです。
よって、先程の意味から言っても、また日達上人のあらゆる点からの御指南から言っても、本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇という御指南は、たしかにそのとおりだと思います。

ただ、私が今考えていることは、今日こういう話をすることは一つのけじめだということを言ったけれども、やはり今日は創価学会の、一時、八百万とも称したような人数が御戒壇様に御参詣するような状態ではない。
しかし三十万の総登山があったように、これからさらに未来に向かって、日達上人が仰せの「因の広宣流布」に向かっての行業を進めるわけであります。要は、日寛上人が『法華取要抄文段』で、
「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段五四三n)
とおっしゃっておりますが、この「根源」というところに当然、深い意味があるのであり、つまり本門戒壇の大御本尊まします所が根源なりとおっしゃっているわけです。
だから、御戒壇説法の「この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということについては、「この所すなわちこれ本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」というように、「本門」と「事の戒壇」との間に「根源」という文字をお入れすることが、現時においては適切ではなかろうかと、私は思うのです。
もちろん、これは御戒壇説法の時のことであって、普段からそういうような意味の定義だということではないのだけれども、しかし考えてみると、「本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということだから、意味としては、事の戒壇であることを否定しているわけでは絶対にないのです。
ただ「根源」の二字が「本門」と「事の戒壇」の間に入れることにおいて、日寛上人が「本門戒壇の大御本尊の所は根源である」と仰せになった意味を、そのままお受けするということです。
このことは一年に二回だけのことではありますが、そういう意味で考えております。

ではそれならば、未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。
それこそ本当に不毛の論であります。
しかし考えてみれば、今もイスラム教の聖跡を巡拝する信徒達の数たるや、すごいものがありますが、将来、一日に二万、三万、五万以上の大勢の人が総本山に参拝するような形があると、大聖人様の御仏意の上から一往考えるならば、奉安堂などは小さいものだと思うのです。
だから、その時になればまた、建築技術も盛んになっているでしょうし、いくらでも大きい物を造ればよいのです。

要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。
だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。
そして、その御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。
さらに本門寺の戒壇ということについて、浅井達は「国立戒壇」と言っているけれども、御遺命という上からの一つの考え方として「国主立戒壇」という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです。
なぜならば、大聖人様の『一期弘法抄』に、
「国主此の法を立てらるれば」(御書一六七五n)
とありますが、国主が立てるというお言葉は、そのものまさに「国主立」でしょう。
国主立とは、『一期弘法抄』の御文のそのものずばりなのであります。

また同時に、その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も国立戒壇に対する意味において色々と言ってはいたわけです。
だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。
ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。
だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。
要は、正法広布の御遺命を拝して、倦まず弛まず広布への精進を尽くすことが肝要であります。

しかし、私は「国主立ということを言いなさい」と言っているわけではありません。
ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで、正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。
そして、これは本門寺が出来た時に行うということです。
ですから、正しい御遺命の意義における本門寺は、まだ当分は出来ないだろうけれども、これからの我々の信心修行、折伏の成果において具体的に現れてくるということを考えていきたいと思うのであります。

以上をもって本日の話を終わりとします。
(大日蓮 平成16年11月号 )