日蓮正宗 昭倫寺

国立戒壇御指南5


(国立戒壇について 御隠尊日顕上人猊下様の御指南) (その5)
第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義
平成十六年八月二十六日 於 総本山大講堂


ところが、この正本堂に関しては、遺言で造れと言われたと言い出したのが三十五年の四月四日で、三十五年の五月三日には池田大作が第三代会長に就任しているわけです。
さらに女子青年部が共同研究をしたこともあったりと、池田も正本堂ということを既に、かなり言っておりました。
しかし三十七年の九月一日に、今でもまだ学会の幹部でいる森田一哉というのが、当時の宗門の庶務部長である早瀬日慈上人に、正本堂とは一体どういうことですかと聞いているのです。その時に早瀬庶務部長は「これはあくまで御法主上人猊下の御胸中におわしますことである。我々が簡単に話をすることではない」というような意味の返答をされています。
これは当然のことであります。
つまり、このころ学会の幹部達は正本堂の名称について、あまりはっきりしていなかったとも思われるのです。

そして三十九年五月三日、大客殿が出来る年ですが、池田大作がまた、この七年間で正本堂を建てよというのが戸田氏の遺言だと発言します。
つまり、あとの七年ということは昭和四十六年になるわけで、それを目指して正本堂を造れということが戸田先生の遺言だと言っているのです。

ところが、四十年の二月十六日に第一回の正本堂建設委員会があったのですが、それまでの間、日達上人は正本堂ということを全然おっしゃっていないのです。
また、この会合でも、池田が色々なことを言い、戸田氏の遺言であるということも言っているけれども、日達上人はこの点については非常に慎重を期せられたと思うのであります。
そのようなことで、四十年二月十六日の正本堂建設委員会の挨拶のなかで、日達上人は、
「池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います」(大日蓮・昭和四〇年三月号九n)
と、正本堂という言葉を初めて使われて、しかもそれを寄進すると言うから受けると言われたのです。
このお言葉は、そのあとずっと長い文が続くのだけれども、今は省略します。
しかし、日達上人はこの挨拶のなかで、「正本堂」という言葉を十二回ほどもおっしゃっているのです。

そして、正本堂の寄進を受けるという意味から、正本堂の色々な在り方を初めて述べられておるわけだが、今この御文を拝してみても、この時に特に正本堂が大聖人様の御遺命の戒壇であるというような、はっきりとした意義を示すお言葉があったとは、私には思えない。
だが学会では、日達上人が第一回正本堂建設委員会で、正本堂が実質的な戒壇だということをおっしゃったと言っているのです。
しかし、あの文を拝すると、はたしてそこまで言えるかと思うのです。

そのお言葉のなかではほかにも、例えば、まだ謗法の者が多いから蔵の形にするとか、色々な意味のことをおっしゃっているのですが、とにかく、日達上人が正本堂という名称をはっきり示されたのは、正本堂を寄進したいという池田の言葉を受ける形でおっしゃったように拝せられるのです。
そして、それまでの間、自ら先に正本堂ということをおっしゃってはいない。
そういう在り方があったわけであります。
さらにこれ以後は、正本堂という言葉は宗門のあらゆる所で、色々な文献、色々な発言に無量無数に出てくるのであります。

さて、戸田氏は昭和三十年の三月二十五日には、当時、宗会議長だった市川真道さんへ奉安殿と大客殿の建立寄進を誓願しております。
その後、戸田さんは亡くなるまで、ずっと国立戒壇と言ってはいるけれども、国主というのはあくまで民衆であり、日本中の人なのだと言っておりました。
これはたしかに憲法が昭和二十二年以降そうなっておりますから、そのことを言っておるわけです。

そして三十九年四月一日に池田が初めて、『三大秘法抄』の事の戒壇の時が来たということを言っておる。
さらにその次の日には「本門の時代」ということを言い出したのですが、これは記憶のある人もいるでしょう。
また「化儀の広宣流布」「王仏冥合達成の総仕上げの戦い」ということも言い出しています。

同年六月三十日には、おもしろいことを言っている。
これも本当かうそかは判らないのだが、本尊流布は豆腐で、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと、戸田先生が何度もおっしゃったと言うのです。
これはもし、言ったとすれば、戸田氏は、昔だったら天皇が一人信仰して、その力で一国全部を信仰させればよいのだけれども、現在の主権在民の上からすれば国民全体が信仰しなければならない。
そうなると、どうしても本尊流布が大事になるということから、本尊流布が豆腐なのだという意味のことを言ったのかも知れない。
したがって、むしろ内容的には、本尊を流布してみんなが幸せになるのが豆腐であって、それに対して戒壇建立はその結果であるから、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと言ったのかも知れません。

戸田さんは色々な面で意表をついたことを言う人だから、例えば「我々は車引きだ」と言ったこともある。
我々は折伏した人を引いて御本尊様のもとに御案内するのだというようなことを言ったかと思うと、今度は「御本尊様は幸福製造機だ」と言ったこともありました。
みんなも覚えがあるでしょう。
とにかく色々なことを言う人でした。
けれども信心は、池田とはもう一つ違った深さがあったと、私は確信しています。

さて、豆腐とおからの話を受けて、池田は、戒壇建立はほんの形式で、石碑のようなものだと言って、さらに、
「したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえない」(聖教新聞・昭和三九年七月二日付)

と、そこまで戒壇建立をさげすんで言っているのです。
そうかと思うと、その次からは戒壇建立に執われて、「本門戒壇建立成就は三千年仏教史の最重要の時」等と言い、大聖人様の御遺命が達成される意味を諸所に言い出し、そこにたいへん執われていたのです。

そこで昭和四十年一月一日に日達上人がおっしゃっておりますが、池田がしょっちゅう利用して使っていた言葉がある。
それは日達上人が池田に「もう広宣流布だな」ということをおっしゃったというのです。
これはおそらく、おっしゃったでしょう。
けれども私は、日達上人がそのようにおっしゃったのは、いわゆる大聖人様の御遺命が全部、達成するという意味ではなく、大略的な意味からだと思うのです。
それはたしかに、あのころは折伏が進み、信徒の増加が著しかった形の上からの在り方、そして折伏の指揮を執っておる池田会長に対する苦労を労う意味、また今後の激励の意味も含めて、そのようなことをおっしゃったと思うのです。
それを池田は「日達上人がこうおっしゃったんですから…」と、その言葉をとっこに取って、それをさらに強い意味において色々な面で利用したのであります。

例えば、先程言った第一回正本堂建設委員会の日達上人のお言葉ですが、これを、
「日達上人猊下から、正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ意義をもつ旨の重大なお話があった」(同・昭和四〇年二月二〇日付)
というように、聖教新聞で発表しているのです。
それから、正本堂建設委員会で作った「御供養趣意書」においても、
「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになった」(大日蓮・昭和四〇年五月号一四n)
と書いて、聖教新聞に載せてある。
この「実質的な戒壇建立」もそうであるが、「広宣流布の達成」というところからも、これらの言は、日達上人の第一回正本堂建設委員会のお言葉には発見できず、既に広布達成という考え方が先走った在り方として出てきておるのであります。

そこで四十年の四月六日には、宗門でも大石菊寿さんが、
「正本堂は、実質において、まさに本門戒旦堂の建立となった」(同・昭和四〇年九月号一八n)
と述べている。
ここにそのお弟子方もいるだろうが、この方は福岡の霑妙寺の住職を長い間されていた方で、百日説法をするというぐらい、お説法が実に熱心な方でありました。
病気になってからも必ず説法したということも聞いているように、とにかくお説法を一生懸命なさる方だったのです。
それで私が登座してから大石菊寿さんを能化に昇進させたのですが、その時に常に説法していた方であったから「常説院」と院号を付けたのです。そうしたら、私は日号を知らなかったのですが、大石さんの日号が「日法」だったのです。院号と日号の意味がぴたりと一致し、うまくできているものだと思いましたが、それはともかく、大石師の例からしても、宗門の全体が学会のそのような考えの在り方に、ずっと引きずられていったような意味があるのです。

これに対して、浅井はこの当時、四十年五月二十五日には、千載一遇の時だから全講を挙げて御供養するということを言っております。
現在、浅井があのように言っているけれども、矛盾点があるのです。
一つは昭和六十一年八月に、
「昭和四十年の御供養趣意書の当時は、まだ誑惑が顕著でなく、少なくとも管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは言わず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調された故に御供養に参加したのだ(取意)」(富士・昭和六一年八月号五三n)
と言っているのです。
また事実、先程も言ったように、第一回正本堂建設委員会における日達上人のお言葉をずっと拝見してみると、広宣流布の上に信徒が非常に増えたことからこのような堂を造るという意味の御指南ではもちろんあるけれども、それが直ちに御遺命の戒壇というようにおっしゃっているとは、私にはどうも感じられないのです。
ところが、昭和五十二年八月には逆に、
「昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において日達上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた」(同・昭和五二年八月号六n)
ということで、攻撃しているのであります。
そうすると、同じお言葉に対して、片方ではこのようなことは言っていないと言っていて、もう片方では、そのようなことを言っていると攻撃しているのだから、浅井が口からでまかせを言っていると言えるぐらい、全く反対のことを言っているのです。

それはともかく、日達上人もこれからあとの御発言のなかでは、創価学会が広宣流布に向かって進んでいく姿、また正本堂を御供養するという姿を御覧あそばされて、その意義の上から、大聖人の御遺命の戒壇建設の方向に向かって進んでおるというような意味での色々なお言葉が拝せられるわけであります。
それを浅井は取り上げて、最後は日達上人もが御遺命違背の法主だということを言って、ついでに私のことも徹底的に悪口を言っているのです。

最近、浅井が出した本でも、日達上人の悪口をさんざん言ったあと、また私の悪口を言っているのですが、この当時、浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。
私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和四十七年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。
また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、五十一年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。
しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。
つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。

このなかで、四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』を読んだ人は手を挙げてみなさい。
一往、四分の一ぐらいの人が読んでいるようだね。
では次に、五十一年に出版した『本門事の戒壇の本義』を読んだ人は手を挙げてください。
これは、なお少ないようです。
なぜ、このようなことを私が言っているのかというと、現在、私が一往こうして当職を汚させていただいておることもあるので、教学部長時代とはいえ、書いた二書のなかにはどうしても当時、創価学会が正本堂の意義付けに狂奔し、その関係者からの強力な要請もあって、本来の趣旨からすれば行き過ぎが何点かあったようにも、今となっては思うのです。
これらはあとで触れますが、これらに関しては日達上人も池田創価学会の強引な姿勢と、その一方での広布前進の相より慰撫と激励にたいへん苦心をされた結果、縦容のお言葉も拝せられるのです。

そのころ池田は、正本堂が御遺命の戒壇で、御遺命の達成であると、そのものずばり言っておりました。
学会のほうでは正本堂が『三大秘法抄』の戒壇そのものであると言っていたのです。
それに対して、浅井から色々と横槍がたくさん出てきたのですが、この時、浅井は一往、捨て身の考え方で抗議したということは、言えると思います。
しかし、その色々な面において、国立戒壇ということを言い出しているわけで、その浅井の国立戒壇の主張は何かと言えば、先程言った田中智学の内容なのです。

たしかに明治欽定憲法の時代だったならば、そういう可能性もあっただろうけれども、今の憲法下では絶対にありえないことです。
まして天皇の国事というのは憲法の上に決まっていて、その天皇がなさることには、様々な書類に押印するなど、その上からのもちろん権力もあるだろうけれども、こと宗教に関する限りにおいては全然、決定の権限がない。
政教分離がきちんと決まっているのだから、そういうことは、今の憲法下においては絶対に無理なのです。

なおかつ、浅井が言っていることは『本化妙宗式目』にある内容、つまり勅命の国立戒壇であります。
それは結局、どうしてできるかと浅井に言わせれば、憲法を改正すればよいのだと言うのですが、現実問題として今日の日本乃至世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない。
それはむしろ時代に逆行という批難から、正しい布教の妨げになるとも考えられます。しかし彼は、あくまでそういうことを言っておるのであります。
(続く)

(大日蓮 平成16年11月号)